昔は普通だったのに、実は間違っていた、なんて、いまさら言われても。
昔は当たり前だったのに、実はそうではなかった、というのはたくさんあります。わたしが子供のときに普通だったことも、実は後から間違っていた、とされたものも結構あり、いまさら言われても遅い、というのはたくさんあります。
例えば、(わたしは陸上部短距離でした)
- 運動部などでは、練習が終わるまで水を飲んではいけない。 → よく考えると意味不明。
- うさぎ跳び練習。 → 腰を悪くする。
- タイヤ引き練習。 → あまり意味がないらしい。
- 足をまっすぐにしての腹筋運動。 → 足は折り曲げないと腰を悪くする。
- 中学校は、男子は全員坊主。
それ以外でも、科学技術関係では、
- アスベストは夢の断熱材(中学・高校の理科のアルコールランプを使う実験では石綿を使っていたと思う) → 今は発癌物質として使用禁止
- PCBは、熱で分解しにくい、不燃性・電気絶縁性が高く、化学的に安定なため、電気機器の絶縁油や熱交換器の媒体などいろいろなものに利用されましたが → 極めて有害として、今は厳重な管理のもとで処理がなされている
といったものもありました。歴史の教科書でも、実は違っていたというものがいろいろとあったと思います。
極めてあやふやな進化説
進化論ってどこまで証明されているの?
学校では当たり前のように「進化論」を教えていますが、これはいまだ「論」と呼べる代物ではなく、単なる「説」にすぎないものです。しかもこの「説」はかなりあやふやなものです。
進化論を大雑把に言うと、突然変異や自然淘汰などによって進化していく、というもの。
しかし、進化論の大前提として、子孫が残されなければなりません。子孫が残らなければ絶滅してしまうからです。
実はここがキモとなるのに、誰も論じないということは一体どういうことなのか、とても不思議に思います。
子孫を残すということは、言うまでもなく子孫を残す能力を獲得しなければなりません。しかもこの能力は徐々に進化して獲得するという性質のものではありません。
なぜなら、複製つまり自己の完全コピーを作る能力がなければそもそも次の世代は生まれないからです。中途半端な複製能力では話になりません。足だけ複製する能力を持っていたとすると、次世代は足しかなく、自己を複製できずにそこでおしまい。他の器官はコピーされないのでそこで絶滅してしまいます。
自己の完全コピーを作る複製能力がなければ、せっかく誕生しても、自分が死んだらそれでおしまいです。また一から偶然生まれるしかありません。何千万回、何億回、途方もない回数を繰り返せば偶然そういう生物が生まれるかもしれない、というのは、サルが適当にタイプすればいつかは源氏物語が完成する、という議論に等しいものがあります。
つまり、進化説が成り立つためには、たった1代で、
- 自己の完全な複製を作る能力
- 自分の完全な複製を作るまで生き残る能力(すぐ死んではだめ)
の二つの能力を獲得すること、これが最低条件となります。
さて、これが現実にありうるかということになります。
生物の仕組みはかなり複雑です。生殖能力ひとつとっても驚異的な複雑さで、人間はいまだに全体像を知りません。
何千万年、何億年もかければ何か生まれるだろう、と考えるのはあまりにも楽観的すぎます。
なぜなら、人間は想像を超えた数を過大評価しがちだからです。数千万年といっても、それは1年1年の積み重ねです。
科学者は、38億年前には生命が誕生していたと主張していますが、そうなると、数億年でポンと突然完全自己複製できる生物が生まれたわけです。アミノ酸ができた、というレベルではありません。
そして、これがもしあり得るのであれば、実験室で容易に検証できるのではないかと思います。なぜなら、科学者が主張する過酷な地球環境で誕生したのであれば、実験室のような恵まれた環境ならなおさら容易に検証できるはずだからです。
わたしが昔学校で教わったことの多くが、実は間違っていた、ということがとても多いです。
盲目的に何も考えずに受け入れるのではなく、よく考えてみれば何かおかしいなと気づくこともあります。
かつては、天動説が当然だった時代があったのです。今、常識とされているものも将来否定されるかもしれません。