6月の「私の履歴書」は本庶佑氏

今月の「私の履歴書」はノーベル賞受賞者の本庶佑先生(京都大学がん免疫総合研究センター長)が担当されていますが、これを読んで、改めていろいろと考えさせられました。

本庶佑 私の履歴書(13)勝負の論文

「カタオカ、ホンジョ」の連名で執筆、教授の「マノ」の名前を入れなかったのだ。

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発想も実験も片岡くんと一緒に成し遂げたし、研究資金も自らとってきた。 30代半ばと若く、怖い物知らずだったのだろう。教授の名前を載せると後々きっと後悔する。最後はその思いが勝った。真野先生がご立腹だったのはいうまでもない。

2024年6月14日 日本経済新聞

このような記事を読むと、いつも感じることがあります。誰のおかげで研究できたと思っているのでしょうかと。確かに教授は直接的には何の役にも立っていなかったように見えるかもしれません。しかし、その教授がいたからこそ研究資金が得られたかもしれません(この記事の場合、研究資金については確かに主張されているとおりのようですが、しかし研究環境は使わせてもらっている立場でした)。それを自分の力でやり遂げたというのは思い上がりではないかと感じてしまいます。これは大学だけではなく、会社や家庭でもありますね。実はその人がいるだけで価値があったということがいなくなってからわかるということが。

本庶佑 私の履歴書(19)がん免疫療法

「(特許の)申請や維持に相当のお金がかかる。大学では無理です。先生、どこか企業に頼んでください」と、担当者の回答はそっけなかった。

PDI1の一連の研究には全く関与していなかったが、付き合いのある小野薬品工業に依頼せざるをえなかった。

2024年6月20日 日本経済新聞

本庶佑 私の履歴書(20)オプジーボ

「PD-1」に関する特許は、いくつかの別のテーマで共同研究していた小野薬品工業に援助をお願いし、特許出願することになった。

特許は普通、申請後1年半ほどで公開される。2002年の論文発表後、直ちに抗がん剤の開発に着手してほしいと小野薬品に依頼した。

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進捗状況について小野薬品からは知らされなかった。オプジーボ誕生の喜びとは裏腹に、私のなかに同社への不信感が芽生えていった。

2024年6月21日 日本経済新聞

これについても、わたしも特許に関しては関わることが多いため、考えさせられることが多いです。

組織に所属して取得した特許について、確かに発明者は尊重されるべきだと思います。しかし、発明者が自分一人で発明できたわけではありません。そこの認識が欠落していることが多いです。組織に所属している場合、資金や場所の提供を受けています。また、自分の給与計算や経費精算をしてくれたり、裏方で支えてくれる人たちが大勢います。その人たちの貢献度も考慮すべきでしょう。それを発明者が総取りするというのは、強欲と言われても仕方ないと思います(たとえ寄付したとしても)。

また、小野薬品側にも言い分があるはずです。推測ですが、頼まれたから仕方なく、という部分があったと思います。おそらくめちゃくちゃ悩んだでしょう。まったく関与していない研究で、将来どうなるかわからない代物に巨額の投資ができるわけがありません。それをゴリ押しする方がおかしいと思います。結果的に成功したから良かったものの、失敗して万が一にも会社が傾いたら謝って済むのでしょうか。成功したら取り分が少ないと騒ぐのは、後出しジャンケンのようなもので、失敗した場合のリスクも含めた取り分を考えるべきだと思います。

このあたりの認識が不足しているように感じます。引き受けてくれたことに関しては、もう少し感謝しても良かったのではないかと思います。少なくとも、ここで吊し上げのようにするのは良くない、と思いました。

訴訟になってしまったのは残念です。ただ、記事を読むと、いろいろなボタンのかけ違いがあったようなので、小野薬品側ももう少し丁寧に対応すれば、違う結果になったのかな、と思います。

青色発光ダイオードの時にも同じことを感じました。

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